写真集『こぼれおちる、光の粒のようなもの』
野口玲さんの写真集
『こぼれおちる、光の粒のようなもの』が、
3月1日、刊行されました。
毎年3月、東日本大震災復興支援イベントを開催してきた、
北鎌倉の喫茶ミンカが企画したものです。
わたしも制作に伴走させていただきました。
野口さんの撮る写真の多くは、
被災地の状況や復興の経緯を伝えるものではありません。
どこでもみられるような草だったり空だったりもする。
遠い東北の地へと、
それでも向かわずにおれないその意味が、
この一冊のテーマとなっています。
見つめていると、かつてはそばにあった
なつかしいものが、
浮かび上がってくるようです。
喫茶ミンカでは3月28日まで 、
野口さんの写真展と支援イベントが開催されています。
写真集は、下記から通販もしています。
ぜひ、ごらんください。
https://rojinooku.stores.jp
手にとる方が、ご自身のたいせつなおもいにふれられますようにと、願っています。
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野口さんのふくしまの写真に出会ったのは、
一昨年の3月だった
透きとおるように静かな写真を目にしながら、
この地と、この地に直接的にはかかわらないこととを
おもいだしていた
ひろやかな空
はてしなくうまれてはきえてゆくもの
けして、きえないもの
そして、じぶんの
いまはもう目にするのも叶わない
ぽろぽろと落としてきたもの
いなくなってしまったもの
その一瞬のまたたきや、あたたかみのことを
それらが、この景色のむこうから、 そっと
こちらをみているような気がした
だれかの、じぶんの、足跡をおもった
それは、ただ、足跡だった
そこには、いいもわるいも
うつくしいもみにくいも印されることなく
地上のあまたの
ありとあらゆるいろんなものと同じように
水もひかりも、そそがれているようにみえた
ほんとうに失ってしまうということが
はたしてあるのだろうか
失ったのだとしても、それは
無くなってはいないのではないだろうか
ふと、そうおもった
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柳宗悦の一文が、この写真集とも通じているとおもっています
長年、たいせつにおもってきた文章です
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「悲」とは含みの多い言葉である。二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。悲しみは慈みでありまた「愛(いとお)しみ」である。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。
(柳宗悦『南無阿弥陀仏』より)
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